マカイバリの世界

マカイバリ茶園~自然と人間が調和する世界

マカイバリ茶園~自然と人間が調和する世界

マカイバリ茶園は1840年代からイギリス人により創業された、ダージリン地方で長い歴史を持つ茶園の一つです。1856年、商業目的としてダージリンで最初に紅茶農園を始めたイギリス人・サムラー大尉によって始められたマカイバリ茶園は、1857年にG.C.バナジー氏に営業権が譲渡され、同年に製茶工場設立、1859年にはマカイバリ茶園(Makaibari Tea Estates)の名が正式登録されました。以後、現4代目茶園主スワラージ・クマール・バナジー氏(通称ラジャ)に至るまで、バナジー家が茶園の人々と一緒に生活し、茶園経営を行っています。

「マカイ」とはネパール語で「トウモロコシ」。「バリ」とは「肥沃な土地」。
マカイバリ茶園に紅茶が植えられる前、その地は肥沃なトウモロコシ畑でした。

インド西ベンガル州ダージリンに設立されたマカイバリ茶園は、良質な紅茶園が多数ある、西ベンガル州カーシオン地区(Kurseong)に位置し、総敷地面積が670ha、東京ドームの約145倍です。その3分の1(270ha)が茶畑に、残りの3分の2(400ha)が原生林のまま残され、無数の野生動物が生息しています。

マカイバリ茶園は4つの山にまたがり、7つの村からなっています。680人のコミュニティー(茶園主は従業員と呼ばず、コミュニティーと呼びます)と、その家族1,700人が茶園の敷地内で暮らしています。茶園には政府系の小学校が2つあり、茶園の子どもたちはその小学校に通っています。

自然と人間が調和する世界~マカイバリ茶園。約700haある広大な敷地の3分の2は原生林のまま残され、残りの3分の1は茶畑にしているためマカイバリ茶園にはトラ、ヒョウ、シカ、ヤギ、ウサギ、そして紅茶の神様といわれるティー・ディバまで、無数の動物が野生のまま生息しているのです。なかでも野鳥はなんと300種類。まさに自然の楽園なのです。

茶園のはじまり

茶園のはじまり
肥沃なトウモロコシ畑 「マカイ」「バリ」

「マカイバリ」とはチベット語で「肥沃なトウモロコシ畑」という意味です。「マカイ:トウモロコシ」、「バリ:肥沃な土地」。植民地時代に英国人がトウモロコシを栽培していたので、そう名付けられたのです。

マカイバリ茶園の歴史は1835年にさかのぼります。当時セポイの反乱で脱走してきた1人の英国人兵士が、後にマカイバリ茶園と名付けられるこの地に命からがら逃がれてきました。彼の名はサムラー大尉。ちょうどその時期は、トウモロコシが実をつけだす頃だった、と言われています。彼はそのままこの地で生活するようになりました。

1840年代になると、英国人がクルセオンとダージリンに紅茶の苗床を作り始めました。サムラー大尉はその苗木をこっそり持ち帰り、茶の木を植えました。彼が、商売の目的で植えたこの茶の木こそが、マカイバリ茶園での紅茶栽培のはじまりだと言われています。

同じ時期、後にマカイバリ茶園初代茶園主となるギリシュ・チャンドラ・バナジーは、コルカタから100マイル離れた裕福な地主の息子として暮らしていました。14歳になるまでに英語とフランス語を習得していたギリシュは、世の中の貧困や不公平を改善したいと思い、法廷弁護士になるためにロンドンへ留学しようとしていました。しかし、誰に対しても大胆にはっきりとした物言いをする彼は、家族からも叱責を受けることとなり、彼は身のまわりの物だけを手に、愛馬に乗って家を飛び出しました。 そして2週間後、彼は弱り果て、お腹を空かし、ダージリンに辿り着きました。弱り果てたギリシュは、英国人司令官に助けられ、その後、得意の英語を駆使し、英国軍駐屯地のための非公式通信員として働かせてもらうこととなったのです。

2年後、ギリシュは16歳で、子馬の急便サービスと、通信関係の仕事を成功させ、クルセオンとダージリンの数々の土地を手にしていきました。そして20才になる頃には、その地域で一番の金持ちになったと言われています。しかし彼は簡素な生活をし、貧困者への援助をしながらも、財産を浪費することはありませんでした。 同じ地域で生活をしていた、英国人のサムラー大尉とギリシュは大変親しい間柄だったと言われています。

1850年代の後半、サムラー大尉は病の床で、若いギリシュを呼び寄せ、マカイバリ茶園の正式登記を遺贈しました。1859年のことでした。 これがマカイバリ茶園の奇跡の出発点でした。

マカイバリ茶園主S.K.バナジー氏

マカイバリ茶園主S.K.バナジー氏
現在のマカイバリ茶園を指揮しているのは、マカイバリ茶園4代目茶園主であるS.K.バナジー氏(1947~)です。マハラジャ(藩王)の息子なので「ラジャ」の名で呼び親しまれています。

バナジー氏はマカイバリ茶園で生まれ育ち、英国の大学を卒業後、エンジニアになることを志していました。しかし休暇で茶園に帰省中、森の中で落馬し、茶園の人々に助けてもらいました。茶園の人々の心の温かさに、自らの原点が茶園にあることに気がついた彼は、家業の茶園を引き継ぐことを決意したのです。

自然との調和をめざして

彼がマカイバリ茶園に戻ってきた1970年代、ダージリンの茶畑は農薬や化学肥料の使い過ぎで痩せていました。そのことに非常に衝撃を受けた彼は、独学で農業を学びました。ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)のバイオダイナミック農法、福岡正信氏(1913~)の自然農法、そしてマハトマ・ガンジー(1869~1948)の哲学は、バナジー氏のその後の茶園経営に強く影響を与えています。

バナジー氏の理想は、自然との調和の中で茶栽培を行うことです。農作物を育む土地はセルフ・サステイナブル、つまり自立維持可能でなければならないと考えます。そのため農薬、殺虫剤、除草剤を使わず、牛糞、油かす、枯葉などの有機肥料や、自然殺虫剤を用いるのです。

「健全なる土壌が健全なる人類を育む」というのがバナジー氏の考えです。具体的には茶園と、それを囲む森林の割合をほぼ1対2とし、茶園が自然と調和するように図ります。森林に住む動物や植物とバランスを大切にするのです。茶木の根元にはクローバーを中心とした雑草を成長させ、窒素肥料を吸収させるようにします。また、ガテマラグラスや枯れ木、そして枯れ草を茶木の根元に敷き詰めるマルチングを行なうことにより、雨季には土砂崩れを防ぎ、乾季には土からの水分の蒸発を防ぎます。

異色の経営者 ~ダージリンで唯一、茶園に住むオーナー~

バナジー氏は、バイオダイナミック農法を他の茶園に先駆けて取り入れただけでなく、ダージリンでは異色の経営者でもあります。ダージリン地方には約80ほどの茶園がありますが、茶園のオーナー自らが茶園に住み、茶栽培の指導に当たっているのは、マカイバリ茶園主バナジー氏だけなのです。バナジー氏は、大自然との調和によるバイオダイナミック農法を、そして茶園で働く人たちの生活を守るため、ダージリンの茶園では唯一、オーナー自らが茶園で生活をし、茶園で働く人たちのコミュニティーと共に、マカイバリ茶園を守っています。

バナジー氏は毎日7時間かけて、茶畑を歩きます。土や茶木の様子を観察するだけでなく、茶畑で働いている人たちとコミュニケーションをはかるためでもあります。バナジー氏は茶園で働く約680人の名前を全て覚えています。そのよのうや気さくな彼の人柄は、コミュニティーの人々の身の上相談にのるほどです。朝から昼食まで茶畑を歩き、午後から身の上相談にのり、夕方に一日の成果報告のミーティングを開く、それが彼の日課なのです。

紅茶に関わる人、動植物、自然、それらすべてが関連し、調和を保ち、良い状態であrときに、すばらしい紅茶育つ、とバナジー氏は考えています。

バナジー氏の功績

そうしたバナジー氏の情熱的な茶栽培の様子が、NHK総合テレビ「新アジア発見」(1999年5月16日)で取り上げられました。「よみがえれ 紅茶のふるさと」と題された30分の番組は、化学肥料によって土がやせてきたダージリンで、最初に有機農法に切り替え、伝統の茶園に新しい方法を定着させた人物としてバナジー氏を生き生きと描いています。この番組で日本の紅茶ファンの間にマカイバリ紅茶への関心が一気に高まりました。

バナジー氏は2002年11月21日に「インド総合経済委員会」の推挙で素晴らしい個人的業績と国家に対する顕著な奉仕に与えられる『ラシュトリヤ・ラタン勲章(国の宝石)』を授与されました。また、2003年6月にバナジー氏は来日し、手揉み玉露名人・山下壽一氏(京都・京田辺市)に玉露指導を受けました。また、2004年には山下氏自らがマカイバリ茶園を訪れて下さり、マカイバリ茶園の人々に玉露指導を行って下さいました。そして2005年6月には、バナジー氏が来日した際、再び京都・京田辺市の山下氏のもとを訪れ、玉露指導を受けました。

NHK総合テレビ「新アジア発見」(1999年5月16日)

番組で語ったラジャさんの言葉は印象的でした。 
「この土を見てください。豊かな土の中にいる無数の微生物をなぜ化学肥料を使って殺すようなことをするのか私にはまったく理解できません」 
「この茶園のようなやり方が、今後はいっそう求められるようになるでしょう。一人一人の人間が自然の中のあらゆる命と調和するのです。ここに生きるすべての存在が一緒に成長していくのです」。
マカイバリ茶園を視察に訪れた米国の喫茶店チェーン社長スティーブン・スミスさんもこう評価しました。
「森とお茶と生き物の共存。この土を見るだけでも驚きです。半年も雨が降っていないのに、土に水分があって、生き物もいる。これは簡単にはできないことです。他の茶園も見てきましたが、土はひびわれ、茶の葉は焼けたようになっていました。明らかにこの茶園でのあらゆる生き物を尊重する栽培法が正しいことの証明だと思います」。

このほか英字紙Japan Timesが1999年3月14日付け紙面で、バナジー氏のロング・インタビューを掲載。ドイツやフランスでもテレビや本でマカイバリ茶園の素晴らしさが紹介されています。自然環境に関心の強い非政府組織(NGOO)もたびたび自然との共生を図るマカイバリ茶園の視察に訪れています。インドの環境オンライン誌「エコポスト」もマカイバリ茶園を詳しく紹介しました。

マカイバリ茶園の先駆的な活動

マカイバリ茶園の先駆的な活動
マカイバリ茶園は、世界36カ国に存在する約20万の茶園の中で、バイオダイナミック農法を実践している茶園として、世界で最初にディメター認証を取得しました。

また、独特な農法“マルチング農法”を茶栽培に取り入れたのもマカイバリ茶園が世界で最初です。このマルチング農法とは、グァテマラグラスを土表に敷き詰める農法です。この農法は降水による衝撃を緩和し、土壌の流出を妨げます。同時に、雑草の成長を制御します。旱魃時期には土壌の水分を保湿し、やがてグァテマラグラスが枯れると土壌の表面に還り肥沃な土となります。

また、マカイバリ茶園では、バイオダイナミック農法による茶栽培だけでなく、茶園で働いている人々の生活をも含む包括的な先駆的な茶園経営を行っています。 茶園で働く人々の生活面では、茶園全体の森林保全と、コミュニティーの生活向上のため、小株主の経営を導入しています。この小株主制度には女性も参加しており、女性が茶園の経営、コミュニティーの経営に参加することは、インドの茶園では極めて珍しいことです。マカイバリ茶園では、男性と同様、女性の監督者を採用しています。
  • 1971年: バイオガスを導入
  • 1975年: パーマカルチャーを導入
  • 1990年: バイオダイナミック農法の完成(バイオダイナミック農法による調合剤に現地薬草を代用として使用したのはマカイバリ茶園が初めて)
  • 1997年: World Wildlife Fund for Nature(WWF:世界保護基金)により、総合森林運営をしている茶園として紹介される。マカイバリ茶園の所有する森で生息する2頭のトラが、WWFに登録される。

マカイバリ茶園の故郷ダージリン

マカイバリ茶園の故郷ダージリン
ダージリンはチベット語のドルジェリン(Dorge Ling)に由来する言葉で、「雷電の土地」という意味です。カンチェンジュンガなどヒマラヤの山々を見渡す「雷電の土地」は、現在、インド西ベンガル州に属しますが、インドが英国支配下にあった19世紀に、英国人が療養地として開発を進めました。そこで栽培されるお茶は昼夜の温度差が激しい高地という自然状況の中で、独特の味、香りを育み、ダージリン紅茶は世界3大銘茶と呼ばれるほど有名になりました。